【素麺品評会】大門素麺(富山県/生産者:末永勝己)
北陸旅行中にめずらしい形の素麺を見つけました。
越中の砺波(となみ)市で作られる大門(おおかど)素麺。
寡聞にして、富山県で素麺が作られていることを初めて知りました。
カッコいい紙の包みを開けると、見たことのないぐるんぐるんの素麺が出てきます。
【細さ】★☆☆☆☆
麺はかなり太いほう。
ぐるんぐるんの丸まげ状になっているので丸まげ素麺とも言うそうです。
【茹で心地】
麺がつながっているので、手でバキッと四つに割って茹でます。
(1/4でじゅうぶん一食分になります)
麺がちょっと太めいので、茹で時間も3分と長め。
茹で上がりは水を含み、ぷよんとして癒し系な感触です。
【お味】
食べてみると、プリッとした丸い麺をプチっと噛み切る食感。
油を使わない製法のせいか、なんとなくやさしい味わいです。
これはどこかで食べた味……と思ったらあれだ、宮城県の温麺(うーめん)に似ています。
表面から芯までほぼ均等にやわらかくなるので、冷やしてもキリッとした感じにはなりません。
麺がかなり重たいので、食べた後は満足感がすごいです。ちょっとひやむぎ寄り。
【オススメの食べ方】
どちらかというとにゅうめんに合いそうな印象です。
出汁の吸いがよさそうなので、鯛出汁にゅうめんとかすごくおいしいんじゃないかな。
消化力が落ちているときとか、弱ってるときに食べると染みる予感がします。
【その他】
販売者であるJAとなみ野のサイトでは大門素麺についてこう記されています。
大門地区に素麺作りの製法が伝わったのは江戸後期。
加賀藩の御用素麺を作っている生産者から
製法を習ったのが始まりといわれています。
その製法は村内に広がり、
最盛期(昭和初期)には60軒以上の農家で作られていました。
今は13軒の生産者が昔ながらの味と形を守り伝えています。
なるほど、加賀藩から製法が伝わったと。
Wikipediaさんによると、下記のように記載されています。
1848年(嘉永元年)に越中の国砺波郡大門村の住人である田守三石衛門が売薬行商で能登の蛸島(珠洲市)を訪れたとき、栗田次兵衛達が前田藩の御用素麺作りで豊かな生活を送っていることを知った。
そのことを田守が村の者に伝えたところ、その中から中島次兵衛が蛸島へ行ってその製法を習得し、中島与市や中畠松三郎達有志で農家の冬の副業として行うようになったのが始まりである。今では絶えてしまった輪島素麺の流れをくむ油を使わない手延べ素麺として残った。
面白くなって色々調べているうちに輪島素麺のページに行き当たりました。
室町時代に五島列島から日本海経由で麺の製法が伝わり、油を使わない手延べ素麺『輪島素麺』が誕生しました。
この輪島独特の製法は富山の「氷見うどん」や「大門素麺」へ伝播し、秋田「稲庭そうめん」、宮城「白石温麺」にも伝わりました。
かの織田信長も御所への献上品には輪島の素麺を選んだと言われるように、公家・貴族をはじめ、江戸時代には加賀前田藩御用達、幕府献上の名品として製麺も盛んでした。
しかし…
明治を迎えると藩の保護を失い、百軒以上あったそうめんの製造業者も次第に廃れていき、昭和初期には輪島から素麺の姿は消え、ついに伝説と化し、幻の輪島そうめんとなってしまいました。
なるほど…。
九州の五島列島から海路で能登半島の輪島に製麺技法が伝わり、輪島で油を使わない手延べ素麺が生まれ、富山の大門素麺や宮城の白石温麺に伝わったと。
最初に食べたときに「温麺みたい!」と思ったのはあながち間違ってなかったわけですね。
農家が農閑期に作る大門素麺の生産者は13軒。
パッケージに必ず生産者の名前が入るということなので、食べ比べてみたいと思います。
【基本情報】
品名:大門素麺
原材料:(確認し忘れました)
製造者:末永勝己(となみ野農業共同組合)